地域犠牲 戦後も苦しむ 「風船爆弾」から平和語り継ぐ 北茨城九条の会 『しんぶん赤旗』2024年8月15日

hata240815-01.jpg 太平洋戦争でアメリカのB23による本土爆撃に驚いた日本軍部が計画したのが、アメリカ本土を直接攻撃する「風船爆弾」でした。軍は敗戦時に証拠隠滅をはかり、風船爆弾関連文書を処分しましたが、明治学院大学国際平和研究所の松野誠也研究員が国立公文書館で、戦後旧厚生省が元気球連隊関係者への調査を踏まえ作成した大津基地 (茨城県北茨城市)の配備要図などを新発見。その新発見も力に、風船爆弾放球跡などが残る北茨城市で、戦争遺構を保存し、平和の大切さを未来世代に引き継ぐ草の根運動を続ける人たちの思いを追いました。    (阿部活士)

 太平洋の海岸線が続く北茨城市大津地区。北茨城九条の会世話人を務める穂積建三さんの案内で、草ぼうぼうの道を歩くと林の中にコンクリートの空間が出現します。
hata240815-02.jpg
  巨大な放球基地

 穂積さんは両手を広げながら、「ここに風船爆弾の放球基地がありました。 風船爆弾は、和紙をコンニャクのりで何層にも貼り合わせて直径10Mの気球に水素ガスを込めたもの。爆弾とともに気圧の変化調整にバラスト(砂を入れた袋)をつるしました。基地はもっと大規模でした」。
 穂積さんが続いて案内してくれたのは、平漁港です。漁港背面の初鳥山の岩場にぽっかりと開いた小さな穴が残っています。
 戦争末期に、太平洋沿岸部に配備された特攻艇・震洋(しんよう)の出撃基地です。
 穂積さんは、「特攻艇といっても、ベニヤ板製のポートです。鉄製の敵艦に対し、予科練を卒業した少年たちに自爆攻撃させたんです。人命を軽んじた戦争の現実を生々しく伝える遺構です」と指摘します。

  誤爆事故で死者

hata240815-03.jpg 地域住民にとって、太平洋上空を東向きに吹くジェット気流を利用した無人風船爆弾軍事作戦とは、どんなものだったのか。
 郷土史家の丹賢一さんらによる旧軍人や住民への聞き取り調査によると、軍は1944年5月、田畑や山林所有者から借り上げた約27万坪の土地に、気球を飛ばす放球台(18台)のほか兵舎や倉庫を備えた秘密の基地をつくり、住民の立ち入りを禁止しました。気球づくり作業は、全国の女学生らを動員。「松野さんが発見した大津基地配備要図にある放球台跡とわれわれの聞き取り調査がほぼ一致しています」といいます。
 放球基地は、千葉県一宮町、福島県いわき市勿来(なこそ)町にもつくりましたが、気球連隊本部を置いた大津基地が中心でしだ。
 三つの放球基地からの風船爆弾攻撃は、「ふ号作戦」として、44年11月3日(明治天皇の誕生日)に開始。9300個が放たれ、900個程度がアメリカ本土に到着したとされますが、山火事が確認されただけで、軍事的被害はありませんでした。一方、攻撃当日、大津基地で誤爆事故があり、兵士5人が死亡しました。

  「戦争ノー」交流

 戦後も基地問題として域住民を苦しめました。
 松野さんが発見した資料のなかには、敗戦から10年たっても、土地が原状回復されずに地権者や市長らが基地設備の撤去を陳情した文書もありました。
 松野さんは、次のように強調します。「戦局を挽回できる威力もない風船爆弾にわらをもつかむ思いで没頭した愚かしさを今に伝えるものです。地域史の視点からみれば、“戦争のため"と戦時中は生活の糧になる農地が奪われ、戦後も原状回復が不徹底のまま放置されるなど、戦争によって翻弄(ほんろう)された実情を示しています」
 北九条の会の人たちは、風船爆弾の遺構や特攻艇跡を見学する「野外型の平和ミュージアム構想」を北茨城市に提案しています。遺構の整備などを求めています。
 穂積さんは、次のように呼びかけます。
 「風船爆弾をめぐる顛末(てんまつ)は、戦争が始まれば、地域住民が土地を含めて総動員されることを示しています。岸田政権の戦争する国づくりに反対するためにも、戦争遺構を訪れてほしい。過去の戦争で地域社会が被った犠牲などを知り、平和の大切さを語り合い、戦争ノー、基地ノーの運動を交流したい」


この記事へのコメント